「私、不眠症になったきっかけがあってね……」
そう切り出したのは、Mさんという60代の女性。施術の合間、雑談の中で出てきた言葉なのだが、職業上の興味というか、妙に気になってその先を促したところ、こんな話を聞かせてくれた。
今から〇年前、Mさんはある時から毎日悪夢を見るようになった。
その悪夢というのは、映画エイリアンにでてくるような化け物に追いかけられるとか、家族が目の前で怪物に変身して襲い掛かってくるので友人宅に逃げ込むと、その友人も怪物に変身して襲い掛かってくるとか。時には二夜連続で「続きもの」の怖い夢を見ることもあったという。
あまりに悪夢が続くので眠ることそのものが怖くなってきて、眠らずにいようとしても結局眠ってしまって悪夢を見る。夫にも相談したが特に解決法が見つかるでもない。もちろんそんな状態だから疲労も取れないし、睡眠のリズムも乱れて、まさに不眠症のような状態になっていたのだとか。
そんな日々が2・3か月も続いたころ、Mさんの身体に異変が起きた。体中の皮膚が黄色くなって、白目も黄色味を帯びてきた。いわゆる黄疸だ。
あわてて病院を受診し検査したところ、診断は、すい臓がんだった。
即入院となり治療が始まったのだが、治療を開始した途端、悪夢を見ることはなくなったのだという。
「悪夢とすい臓がんって、関係あるんやろか。そんなわけないですよねえ」
冗談めかして言うMさんだったが、私は寒気を覚えていた。
なぜなら、東洋医学的には関係ないとは言い切れない……というかむしろ、関係がありそうだからだ。
これはあくまで東洋医学的な観点からの話なのだが、頻繁に夢を見るとか、怖い夢を見るとかいった現象は、心臓と脾臓の機能がバランスしていない時に起こるとされている。
この時の心臓や脾臓は、もちろん、臓器そのものも含むが、身体の機能をおおきく5つに分けたグループのことを指す。上古の中国人が自然界の理を5つの要素で説明しようとした際、人体にもその法則を当てはめ、5つのグループそれぞれに臓器の名前を充てたのだ。心臓のグループ、脾臓のグループ、肺臓、肝臓、腎臓……といった具合に。
問題の心臓は、血液を送り出すポンプでもあり、精神活動も主っている。心臓は心の動きの本体。つまり夢に関わる臓器なのだ。そして脾臓。こちらは消化活動全般を主っている。食べ物を消化して、栄養を吸収して、全身に分配する。だから臓器そのものでいえば、消化液を分泌するすい臓も脾臓のグループに含まれる。
Mさんの場合、すい臓の異常が脾臓のグループと心臓のグループとのバランスを崩して、心臓グループの活動に変化を及ぼした。そしてそれが、心の平静さを乱すような、「悪夢」という形で現れた。そう解釈できる。
もちろん、悪夢を見たら即すい臓がんとはならない。週に2・3回見たとしても、癌には結びつかない。しかし、2・3か月にわたって毎日、悪夢を見る。眠ることすら恐くなる。これは明らかに異常だ。そして、すい臓がんだった。となると、鍼灸師としては、関係があるように思えてならないのだ。※悪夢と臓腑の関係については諸説あります