鍼灸師よ、脱力の方法論を武道に求めるなかれ

先日、鍼灸師の集まりで、施術者の脱力や患者との“間合い”の重要性について話題になりました。
施術者に力みがあると、患者の所見を正確に捉えられないし、鍼の良好な影響も与えられないというのがその主旨。
たしかに、治療者にとって、心身共に力みのない姿勢は極めて重要なことです。異論をはさむ余地はありません。
とはいえ、脱力や間合いの方法論の部分で武道との親和性にまで話が及び、さらに経験者の私に同意を求められると、さすがに
「いや~。どうすかねえ」
と、苦笑いせざるを得ませんでした。
なぜなら私は、施術者の脱力と武道の脱力がほとんどの場合で別物と考えているからです。それこそもう何年も前から。

今回は、2012年の今頃に書いたブログ記事に一部加筆修正して紹介したいと思います。

目次

私の武道経験

私は中学から大学にかけての10年間、柔道をしていました。
10年といえば格好は良いですが、何かと理由をつけてやったりやらなかったり、打ち込んだわけではありませんので決して強くはないです。

社会人になってからは着衣総合武道という括りの空手……空道を始めまして、これも数年に1回仕合に出る程度の打ち込み具合ですので、10年やってきてやっと1回全国大会に出られる程度(しかも1戦目でフルボッコ負け)の腕前です。

なお、2008年と2012年の2回、西日本大会にエントリーし、6戦5勝したうちの4勝は寝技でした。動画をご覧になるとまる分かりですけれど、打撃でどうにかする気は皆無です。誘って、相手が打ってきたら引きこんで寝技で勝負。ルール上、30秒の寝技が2回しか許されていませんので、その2回で何とかできなければとにかく最後まで立っていられるよう頑張るといった戦法です。
寝技慣れしていない人たちの中だったのである程度の結果は出ましたが、あまりに実力差が大きいと寝技に持ち込む間もなくボコボコにされてしまいます。全国大会がその典型でした。

“気”を扱う鍼灸と武道と脱力と

とまあ、競技者としては全然大したことのない私ですけれど、今回偉そうにも述べてしまうのが、タイトルにもあります脱力に関してのこと。

鍼灸師が患者を前にして行う脱力についてです。

さて、鍼灸の手法のなかには、いわゆる『気』を施術対象としているものがあります。人体にあまねく廻る『気』の滞りなどを解消して、症状の寛解を目指す手法です。

この際に治療対象となる『気』は、

  1. 眼で見る事も計器で計ることもできない(※少なくとも私には見えませんし、感じもしません)
  2. 身体のごく表面を巡っている(※深いところを流れるものもあります)
  3. 皮膚表面にわずかな変化を引き起こす
  4. ちょっとした働きかけの違いで、良くも悪くも変動しやすい

以上のような性質を持っています。

『気』に対する施術を行うには、そのわずかな変化を捉え、軽微な鍼刺激によって良い影響を与えることが至上命題となり、このとき重要になってくるのが「脱力」であると考えられています。施術者に余分な力みがあると皮膚表面のわずかな変化を捉える事が出来なくなり、微妙な鍼の操作もできなくなってしまうといった理由からです。

指導の場ではまるで呪文のように「力を抜け」という言葉が繰り返されます。その中で、脱力の訓練方法を武道に求める者が一定数出てくるのです。

たしかに、武道経験者で鍼灸は初心者というのであれば、脱力のきっかけを与えるヒントには成り得ると思われます。
とはいえ、ある程度以上の鍼灸の技術を持つ者がそれを目指すとなると、さすがにちょっと違うのではないかと私は思うのです。それ以上の技術向上を望むのは難しいだろうと。

武道と鍼灸における脱力の違い

なぜ、武道を手本として脱力するのは鍼灸に適さないのか。
それは、武道と鍼灸とにおける“脱力”に違いがあるからです。それはもう、あらゆる面で!

鍼灸武道
脱力の目的知覚と動作のため⇒施術動作するため⇒破壊
脱力のタイミング行為中(ずっと)行為前(準備として)
働きかけの対象「気」
静止している人間
動いている人間
武道と鍼灸における脱力の違い

鍼灸での脱力の目的は前述のように、相手に接触して皮膚表面のわずかな変化を捉えたり、軽微な鍼刺激で影響を与えたりすることです。脱力が診断・治療そのものの質に直結していて、東洋医学的診断・施術の間、常に脱力が求められます。
一方、武道での脱力の目的は、素早く反応したり爆発的な力発揮をしたりなどの準備としてです。手合わせをしている最中、脱力と力発揮の両方が求められます。

また、鍼灸における脱力の対象は多くの場合安静にしている人間の「気の動き」です。
武道では、これからこちらに危害を加えようと動いてくる人間です。気を扱う種類の鍼灸をされている方ならお分かりかと思いますけど、それは気ではなくて「血の動き」とも捉えられます。

これらが同じ脱力の方法でなされるなんて、私にはとても考えられません。

型が似ているから夢想してしまう?

鍼灸も武道も、脱力して立っている際の見た目、「型」は似ているかもしれません。しかしそれも、一見すると似ているだけに過ぎません。
精神のあり方は全く違うといえます。
鍼灸では相手の気を邪魔しないように静かであるのに対し、武道ではむしろ虚を突いたり邪魔したりし合う性質を持っていますから、静かな様でも実際は激しく動いているのです。

「いやいや、武道だって相手と気の動きを合わせて、攻撃に対応するんだ!」

そのような意見もあろうかと存じますが、残念ながら、それは武道に対する幻想です。
武道において相手の攻撃への対応を可能にするのは、「気」を合わせることではありません。眼や筋肉の動きやリズムや攻撃のパターンを読むことです。ノーモーションのパンチが当たりやすいのは、それらが読めないからです。

「その読みが『気』を合わせることじゃないか!!」

それも、どうでしょう。このような場合、「気」というよりも「機」と表現した方がしっくりとしそうですが……。
まあ、言葉遊びは脇に置いておくとしても、相手の出方を読めるようになったところで鍼灸の技術は向上しません
なるわけがないですよね。そもそもの対象が違うのです。
しかも、相手の出方を読めることは、脱力とは関係がない。力んでいても動きは読めますし、読んだ後の動きに脱力が関ってくるのですから。
だから気を合わせるもへったくれも無いのです。しつこいようですが、鍼灸の技術とは全く関係ありません。

しかし、もしかしたら、相手に触らずとも倒せるような達人の中には、鍼灸で行う脱力時のような精神状態で対戦相手と相対することが出来る者が存在するかもしれません。
先日の話題の中でも合気道の熟練者の話が出ました。そのかたは若いながら師匠を越える勢いだそうで、「相手が出てくるのを静かに待てばよい」といった旨のことを仰っていたとのこと。それを受けて、待っているときは鍼灸で行う脱力時のような精神状態になっているかもしれないと言う者もいました。確かに、実際手合わせしたらどんな感触なのか、興味深く感じます。
とはいえ、たとえ合気道の熟練者や達人たちが鍼灸に求められる脱力と同じ種類の脱力を行っているのだとしても、合気道の稽古をするする気にはなれません。熟練者や達人のような脱力ができるレベルになるのに、いったいどれだけの時間と労力が必要なのか、武道・格闘技をかじっていた者として想像もつかないからです。
達人を目指して武道の稽古する暇があるなら、その時間を鍼灸の修練に充てた方がずっと効率的に思えてなりません。そもそも、武道の達人になれるほどの才能があるのなら、うだつの上がらない鍼灸師なんかやってないで武道家として道を成せば良いのです。

結論

鍼灸師は、武道が云々と中二病みたいな事を言ってないで、鍼灸師として脱力の訓練をしましょう。
単純な “触り方” だけの問題ではないので、難しい人にはとことん難しいとは思いますが、武道に気を取られなくなる分はマシです。
鍼の達人の内弟子となるのも、1つの方法です。セミナーで習うのとは比べ物にならないほど深い部分が、いつの間にか身についているかもしれません。
私なんかは特に“入れ込み”やすい質ですし、誰かの内弟子でもありませんので、地道に気負わず修練あるのみです。

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