【解釈】マイマイとナイナイ【ネタバレ】

じねん堂の本棚は絵本を中心に、季節ごとのテーマを決めて模様替えしている。夏は毎年「怖い話」をテーマにしていて、岩崎書店の怪談えほんシリーズは外すことができない。 なかでも「マイマイとナイナイ」は異彩を放つ作品だ。

皆川博子が紡ぐ不条理な物語と宇野亜喜良(うのあきら)の描く妖しげな挿絵とが溶けあい、読者を幻想的な世界に誘う。いわゆるダークファンタジーである。

マイマイは、小さい小さい弟、ナイナイをみつけた。
しかし父も母もマイマイのことを見えないと言う。マイマイは、ナイナイをクルミの殻に入れた。
大きな森へ花を摘みに行ったマイマイは、白馬に蹴られて右眼を失った(作中の表現は“壊れた”)。 マイマイは失った右目にクルミを嵌めた。
マイマイが眠っているとき、ナイナイはクルミの殻を開けて、外を見た。部屋の中には夜の夢が広がってる。
ナイナイは夜の夢を捕まえ、クルミの殻の中に引きずり込んだ。夜の夢はクルミの隙間からナイナイの頭の中に侵入し、夜が明けても消えることは無かった。
いっしょに遊ぼうと夜の夢に誘われて、ナイナイはくるみの中から飛び出した。からっぽになったクルミに、夜の夢はマイマイの心を押し込んだ。ナイナイは夜の夢でクルミをつつみ、その上に腰掛けた。
マイマイの心はクルミの中に入ったまま、外に出られなくなってしまった。
誰かマイマイを助けてあげて…。

あらすじは以上のようなものだが、子供には難解かもしれない。実際に読み聞かせをしてみても、話の意味が分からないと言われた(小学校低・中学年)。そして大人にとっても、読む人によってさまざまな解釈ができる作品ではないかと思う。

今回は私の解釈を紹介したい。

解釈

両親ですら認識できない小さな小さな弟ナイナイ。小さすぎて見えないのではなく、マイマイだけにしか見えない、いわゆるイマジナリーフレンドなのではないかと、物語の冒頭では感じさせる。

花を摘みに行ったマイマイは、白馬に蹴られて右眼を失う。

白馬は神聖さや高貴さの象徴ではあるが、同時に 、太刀打ちできないような巨大な力を暗喩しているとも考えられる。例えばタロットカードにおいて、死神が跨がっているのも白馬である。

その白馬に蹴られて右眼を失ったのだから、マイマイは何か目を覆いたくなるような、事実として受け入れられないような体験をしたのではなかろうか。それならば本文において、目を “壊れた” と表現しているのも合点がいく。目は “ある” し、見えもするのだが、壊れてしまったのだ。そして壊れる原因となった体験はまだ続く可能性がある。ゆえに自らがその状況を見なくて済むよう、壊れた目にナイナイ(の入ったクルミ)を入れたのだ。

しばらくの間、マイマイが目を瞑ると、ナイナイが代わりに見てくれた。夜の夢もそうだ。毎夜の悪夢……。白馬に蹴られる前から、マイマイの日常は悲惨なものだったのかもしれない。だからこそナイナイを見つけたとも言える。つまりナイナイは、マイマイの中に生まれたもう一つの人格なのだ。

ここまではまだ、マイマイに主体がある。マイマイの意思で、ナイナイをコントロールしているからだ。
しかし、徐々にナイナイの存在が大きくなってくる。

ナイナイが夜の夢をクルミの中に引きずり込み、マイマイの頭の中に悪夢が流れ込む。朝になっても、明るくなっても、夢は消えない。夢だと思い込みたかった現実が、再びマイマイを苦しめるのだ。次第にマイマイの主体としての自己が揺らいできてしまう。
止めるように頼むマイマイの言葉を、ナイナイは聞かない。どうやらナイナイはマイマイの支配から離れてしまったようだ。

そしてついに、ナイナイはマイマイの心(!)をクルミの中に閉じ込め、ご丁寧にも夜の夢でクルミを包み込んでしまった。
開かないクルミからは外の様子もうかがえない。

ナイナイはマイマイ代わって、支配的人格となったのだ。


以上のように、マイマイとナイナイには「不遇の少女マイマイに起こった内在性解離から解離性同一性障害への進行と人格交代の様子」が描かれていると解釈した。

とはいえマイマイも、元の人格かどうかは分からない。ナイナイ同様、象徴的な名前なのがどうにも引っかかる。いつも連れているカタツムリ(マイマイ)の殻の中に、もしかしたら……。

※ミエワンブログで2015年に公開した記事を加筆修正しました

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